千葉・市川の手児奈伝説ゆかりの地を見てきました!

2021年(令和3年)5月18日(火)[ブログ番号:38]

前回のブログで、千葉県市川市にある京成電鉄の市川真間駅が、母の日に合わせて「市川ママ駅」に変わった、ということを書きました。

「真間」は万葉集にも出てくる歴史のある地名です。「真間」という漢字は当て字で、「まま」とは古い日本語で「崖」を意味するそうです。古代では海岸線が近くまで来ていて、「真間の入り江」と呼ばれていたそうです。

明治時代になると「真間村」ができ、明治22年に周辺の村と合併して市川町(現在の市川市)の大字となりました。

東京に近く、海にも近いという景勝地として東京の豪商や作家の別荘地となり、関東大震災後は東京から移り住んだ人たちの高級住宅地となったそうです。

現在は市川真間駅北側一帯の住宅地となっており、真間1丁目から5丁目まであります。

この真間の地には「手児奈(てこな)伝説」という話が伝わっています。

奈良時代に、「手児奈」という名前の、ものすごい美人の娘さんが住んでいたそうです。

その美しさは広く知れ渡り、多くの男の人たちから求婚され、手児奈をめぐってケンカになったり、手児奈への想いが強すぎて病気になる人まで現れたそうです。

それを知った手児奈は、自分のせいで人々が争ったりするのを憂い、自分がいなくなれば争い事もなく平和になるだろう、と思い詰め、なんと、真間の入り江に身投げしてしまったそうです。

なにも命まで絶たなくても、と思ってしまいますが、モテる人はモテる人なりに、いろんな気苦労があるんですね〜。

手児奈は万葉集にも詠われて、奈良の都にも知れ渡るスーパーアイドルのような存在だったんです。

しかし、時代が進んで江戸時代になると、手児奈伝説も次第に忘れ去られつつありました。これを憂いた幕府の作事奉行・鈴木長頼が万葉集にも詠まれた手児奈ゆかりの地三ヶ所に石碑を建て、後世に継承しようとしました。

それが現在も残っていて「真間の三碑」として市川市指定文化財となっています。この「真間の三碑」は市川真間駅から歩いて10分くらいのところにありましたので、見に行って来ました。

前述の通り、かつては入り江になっていて、たくさんの中洲があったそうです。そこにかかる継橋が万葉集で詠われていました。

『足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通わむ』(詠み人知らず)

これは手児奈に会いに行くために、足音がしない馬が欲しい、という心情を詠ったものです。なんか、すごい執念…。

👇万葉集にある真間の継橋があったと推定される場所に、赤い欄干の橋がありました。でも、現在は入り江はありませんので、橋の下に水は流れていませんでした。

👇橋のたもとに石碑がありました。

三十六歌仙の一人で、百人一首でもおなじみの山部赤人もこの地を訪れたときに和歌を詠んでいました。

『われも見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名が奥津城処』

「奥津城処(おくつきどころ)」とは墓所のこと。みんなのためを思い自ら命を絶った手児奈があまりにも気の毒だと、地元の人たちがお墓を作り、手厚く葬ったそうです。

その、手児奈のお墓があったと推定される場所には、江戸時代に近くにある弘法寺が手児奈の霊を祀るために手児奈霊神堂というお堂を建てました。

👇手児奈霊神堂の入り口に石碑がありました。

👇手児奈霊神堂です。一見、神社のように見えますが、お寺ですので柏手は打たず、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えました。安産、子育て、良縁成就の神様として、地元の人に親しまれているそうです。

手児奈霊神堂のとなりには、亀井院という弘法寺の子院があり、敷地内には手児奈が水を汲んだ、と言われる井戸がありました。

この伝承を聞いた奈良時代の歌人である高橋虫麻呂は次の歌を詠んでいます。

『勝鹿の真間の井を見れば立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ』

👇亀井院の入り口にも石碑がありました。

👇亀井院のお堂です。

👇お堂の脇には廊下をくぐる入り口があって、入ることができました。

👇入口を入ると、ステキなお庭が広がっていました。

👇その奥に、手児奈が水を汲んだ、と言われる井戸がありました!

👇真間の三碑の近くには、市川手児奈通りという道があり、その看板に手児奈と思われるサムネイルを発見!

う〜ん、でも、美人というより可愛らしい感じのイラストですね〜。よく見ると、髪の毛が「て」、鼻と口が「こ」、顔の輪郭と首飾りが「な」になっているような…( ^_^)

以上